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「あの時、お前の中では天秤が傾いたのだろうな」

 

二〇一八年、四月某日。

この日の終業間際、幽さんは私を部屋に呼び出し、私の目を真正面から見ながらそう言った。改めて想い人にまじまじと見られると、それはそれでむず痒いものがある。

 

「天秤が傾いた、というのは?」

「要は優先順位の話だ。無意識な自己防衛の表れがあの繭だったというのなら、それを己自身で突破することが出来たのは、自己防衛と決別できたという証明になる。今まで大事にしていたものが変わったからこそ、私はお前があの繭に飲まれなかったのだと思っている。違うか?」

「……歯切れが悪い言い方になってしまいますが、そうかもしれません。あの時の私は、何となく気にしていた世間体とか人間関係とかどうでも良くなっていて、ただ目の前の状況を何とかしようと必死にもがいていたような気がします」

「もがいていた割には、傍から見たお前は結構冷静だったように見えるがな。まあ、あの解決策は、冷静な人間から導き出されるものでもないようにも思えるが」

「仰る通りです……」

 冷静でないからこそ、あのような馬鹿げた解決策を弾き出したわけで、流石にいろいろ開き直った事件後の私でも、素面であれが出来るような性格では無いように思う。あれは末代までの恥と言っても過言ではない。

 

「私が驚いたのは、自分の恥ずべきところ、あるいは隠したくなるようなところである白亜の存在理由について、私に向けて淡々と開示したところだ。これが普通の人間であれば──そもそも普通の人間は【物語要素(ファクター)】になんぞ出遭うことが無いのかもしれないが──普通は知人に多少の見栄を張るか、あるいは押し黙るかの二択だろう。と言ってもお前の場合は家族の命が関わっていたから、その辺りは恥を忍んで私に打ち明けたのかもしれんがな」

「……」

「あるいは、ある意味潔癖ともいえるその過剰な防衛反応に対して、特に恥と思っていなかったか。どちらにせよ、あそこで迅速に対応できるお前は、大した奴だよ」

「あ、ど、どうも……」

 

 素直に幽さんから褒められると思っていなかった私は、咄嗟にどん詰まりの声を絞り出した。声が裏返らなかっただけまだマシだ。

 ちなみに、私のあの時の対応が淡白で冷静に見えたのは、幽さんの言う通り、家族の命がかかっていたから、というのが大部分を占める。もしかしたら『防衛機制なんて人間の大多数が持っているようなものなのだから、他人に打ち明けることに関して恥じるようなことではない』、と無意識に思っていたのもあるかもしれないけれども、そんなことを考えている余裕は、あの時の私にはこれっぽっちも残されていなかった。まあ、幽さんから潔癖、過剰と言われているあたり、結局私の抱えていたものは、人並みでは無いようだったけれども。

 意識が蕩(とろ)けていく中で、精一杯をやった。無我夢中だった私が胸を張って説明できるのは、それくらいだった。

 

「今のお前は、世間体、あるいは人間関係よりも何を重視しているのだろうな。それは今後追々見つけていくのでも良し、何か掴んでいるものがあるのならばそれを追いかけていくのも良し。今回の件でお前が迷わずに進めるのなら、それに越したことは無い」

「ふふ。幽さん、何だか先生みたいですね」

「別に私はお前に正解を教えてあげられるほど、立派な物語を歩んできた訳でもないがな。周りから見れば、優等生として生きてきたお前の方が、余程先生に向いているだろうよ」

 

 幽さんは相変わらず、何だか自分を不良生徒のように見ている節がある気がするけれども、意外と自己評価が低いタイプなのだろうか。自信がありそうな持論を展開している場面は多々あるけれども、自分で自分を褒めるような場面も見たことがないし、もしかしたら幽さんがお喋りなのは、ある意味自分の弱さ、自身の無さを隠すための一種のカモフラージュのようなものなのかもしれない。それでもやはり、【物語要素(ファクター)】を前にしても防衛機制が働かず、繭に囚われることの無かった彼は、心臓に毛が生えていると言わざるを得ない(とか口に出したら幽さんに怒られそうなので言わないけれども)。

 

「そうだ。こうしてお前を呼んだのには理由がある。あの事件のことについてはいくらでも話し相手になってやるが、今回は別件だ」

 そう言いながら、幽さんは自分のノートパソコンを取り出した。あの時『伝承の匣』に関するスレッドを開いていたパソコンだ。

「前に、物語を蒐集する際に、インターネットを利用するといった話をしただろう? だからそのためのサイトを作った。ほら」

 

 幽さんはパソコンの画面を私に見せる。そこにはシンプルなデザインのサイトが映っており、画面中央には『現代怪異文学』と書かれている。質素ゆえにそのサイトからは不気味さもあれば、洗練さも感じられる。

 

「すご……。これ、幽さんが作ったんですか?」

「そうだ。最近はサイトを作成しようと思えば、無料で簡単に作成できるツールが多くて助かる。大層なものを作ろうとすればそれなりに金額もかかるが、

実質お問い合わせフォームだけのサイトなんぞ、数時間あれば素人にも作れる。後はこの得体の知れないサイトをどこでどうやって宣伝するかだが……、まあその辺りは追々考えるとしよう」

「実際、私みたいに【物語要素(ファクター)】のようなものに出くわしている人っているんでしょうか。今まで白亜以外に見たことがなかったので、そもそも存在すら疑っていたレベルだったんですけれども……」

「そこは正直、私にも分からない。【物語要素(ファクター)】にしても私が勝手に定義しているというだけで、私もあれを目の当たりにしたのはお前の件が初めてだ。だから、そもそも私の望む物語が集まらない可能性も否定できない。だが、宮沢の件や緑苑高校の件を聞いている限りだと、私たちが知らないだけで、内密に怪奇現象が発生していてもおかしくない。聞けば緑苑高校の方は白亜の件と同じ時期の出来事だったらしいからな」

「そう言われるとそうですね。滅多に起こらないものであれば、身近な人でこう何件も話を聞くこともないでしょうし。藤堂さんたちが情報提供してくれるというのもありますけれども、それでもちょっと多いような気がしますね」

「もしかしたら、私たちが認知していないところで、割と【物語要素(ファクター)】は活発に動いているのかもしれない。上質な物語が得られそうだが、その分日本があわただしくなりそうだな」

「実は政府辺りが色々ともみ消しているのかもしれませんね、なんて」

 

 どうやら日本には、政府と呼ばれる組織が存在するらしい。私も藤堂さんから話を聞いたときに初めて知ったけれども、政府が何者の集まりなのか、普段何をしているのかの詳細は明かされていない。公に明かされている役割としては、藤堂さん曰くインフラや行政/司法/立法を統制しているらしいのだけれども、三権分立については公民の授業でも教えられてきた通りに機能しているため(もちろん内閣も国会も裁判所もある)、そもそも普通に生きてきて政府と関わることは滅多にないのだという。

 でも、その謎の組織が日本の怪奇現象に関わっていたとしたらどうだろうか。私たちは政府のことについてあまりにも知らなさすぎるため、どう足掻いてもちょっと陰謀論チックな話になってしまうのだけれども。

 でもそれこそ幽さんあたりは、結構嬉々として政府の存在を調べ始めるんじゃないだろうか。

 

「政府な……、確か藤堂親子が出していたワードだな。詳しいことはそれこそ彼らに聞かないと得られなさそうだし、まずはこつこつ地道に物語を集めるのが先だろうな。その過程で政府のワードが藤堂親子以外から出てくるのであれば、もう少し本腰を入れて調べてみてもいいだろう。それに父親の方は自称嘘吐きだからな。どこまで信用していいのか分からん……」

 

 幽さんは眉を顰めて言う。へえ、幽さんも他人に対して、たじたじになることがあるんだ、と思いながら何となく目線を逸らしたところ、ふと机の上に飾られた硝子の花瓶、その中に活けられている白い花たちの存在に気が付いた。

 

「あの、これって……」

「ああ、それか。この前、母に贈った花束の一部だ。以前母は白い花が好きだと言っていたから、花屋で見繕ってもらったんだが、その一部を分けてもらってな。部屋に飾れというもんだから、こうして柄も無く花を飾っているんだ」

「素敵ですね。勿論花もそうなんですが、その。ご家族との繋がりが感じられるようで」

「……ああ、そうかもしれないな。親の手を煩わせまいと、基本他人に家族の話をしてこなかったんだが、こうして目に見える場所に、家族を想起させるものが置いてあるというのも、案外悪くないな」

 

 幽さんは花の方を見ながら、優しく笑う。不敵な笑みでもなく、見下す笑みでもなく。それは本来の彼が見せる、裏表のない純朴な笑みだった。

 今回の件で、私は家族への思いを改めて考えさせられた。今まで傍に居て当たり前だと思っていたからこそ、家族の喪失というものは、どんな形であれ私にとっては衝撃的なものだった。後悔しないうちに、私は家族に注いでもらった愛のお返しをしないといけない。しないと、気が済まない。

 幽さんがいつかその気になって、彼の母──芥川累さんのことについても話してくれるようになったら、その時はお互いの家族の自慢話をしよう。お互い家族の手料理を持参して、お互いの味の違いで盛り上がって──ああ、また変な方向に妄想が膨らんでしまう。

 ──到底、フラれた側がやる妄想じゃないな。

 

「あ、そうだ幽さん。幽さんって、普段晩御飯って一人で食べられているんですか?」

「……なんだ、何の確認だ?」

「や、父も基本家でご飯食べていますし、他にこの図書館に居候している人がいるとも聞いていないので、実家に帰られたとき以外、どこで誰と、何を食べているのかなって」

「お前の想像通り、余程のことが無い限り、簡単なものを一人で食べているが。それがどうかしたか?」

「今度、うちに食べに来ませんか?」

 

 突然の私の提案に幽さんは思わず、目を皿のようにして聞き返す。その様子は動物に例えるならば、猫に近い。流石普段猫を被っているだけある。

 

「……うちと言うのは」

「はい、太宰家ですね。父の料理も母の料理もおいしいので、一度幽さんに食べてほしくって。それに、物語の蒐集をする上で、母の理解をきちんと得たいのも本音です。だから母の説得を手伝っていただこうと思いまして。そうですね、割合で言うと半々くらいです」

「物語の蒐集の理解を得たいのと、両親の手料理を食べてほしいのが半々って、お前どういう感覚してるんだ……お前の食卓で家族でもない男がオカルト的な話をして、誰が喜ぶと思う?」

「私が喜びますね」

「………………はあ。考えておく」

 

 幽さんは私の押しに根負けしたようで、わざとらしく溜息をついて首を横に振った。本当に考えてくれるかはさておき、彼の口からそのような言葉が聞けるのは、司書勤務初日からしてみればかなりの進歩だった。

 ちなみに数ヶ月後、マジで太宰家に幽さんがご飯を食べに来てくれる機会があったりするのだけれども、詳細については割愛する。その日の献立や会話内容については、いずれ別のタイミングで幽さんから明かされることだろう。多分。

 

 この辺で宴もたけなわ、私のたどたどしい語り手はしばらく見納めになるだろう。語り手を名乗る幽さんと比べて、私の口調は別の方面で性格が出ていたかもしれないけれども、この話が誰かの何かの役にでも立っていれば幸いだ。

 そう言えば、冒頭に幽さんが言っていた、天秤が傾いたという話で、思い出したことを一つだけ。

 以前、幽さんは【物語要素(ファクター)】のことを、人生の起承転結の転と喩えていたけれども、今の私はそうは思わない。実際、白亜に出遭ってから私の人生は転がりに転がりまくったのだけれども、それは結びの展開に紐づく転ではなかった。もしあの時、周りから発破をかけられなかったら、寄り掛かる信念も無い私は、訪れた結びを成すがまま受け入れていただろう。それに抗うことが出来たのは、ここで物語を結ぶべきではないと、手を差し伸べてくれた人たちがいたからだ。だから白亜との出会いは、私にとっては起承転結の転ではなく、むしろ起だったのさえ思える(微睡みから起こされたという意味でも起はぴったりだ)。

 もしかしたら私の中の天秤は、希望に満ち溢れた明日を見たくて、自分の翅で空を飛んでみたくて、傾いたのかもしれない。あの時の自分の感情はあまりにも一瞬で、眩しくて、掴み切れなかったけれども、今も私の胸の中を煌々と照らし続けている。

 さて、月並みな言葉だけど、最後はやっぱりこの言葉で結ぶとしよう。

 私の物語は、まだ始まったばかりだ。

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