二〇一七年九月二十一日。
この日、俺の家に一つの小包が届いた。通販を利用することはたまにあるが、この時ばかりは全く心当たりがなかったため、俺は訝しげにその荷物を受け取った。
差出人の欄には企業の名前が書いてあったが、例の異能関係の字面がないことに、半分安堵、半分警戒する。ならば余計に、俺へ誰が何のためにこの荷物を送ってきたのか、想像がつかない。
俺が差出人の文字列を検索している間に、杏璃は小包を覗き込み、唇をきゅっとあげて笑顔になる。
「大丈夫。これ、アタシが頼んだやつだから。開けてみて」
「え、杏璃が? だってお前、俺から受け取らないと物に触れないんじゃなかったか? どうやって荷物を注文したんだよ」
「ええ、物に触れないのは変わらないわよ。だから、千尋のお母さんに手続きを頼んだの。ちなみに、その宛先は頼んだお店の屋号よ」
杏璃がそう言うなら、危ない荷物ではないのだろう。俺はカッターを持ってきて、段ボールの封を開けた。そこには緩衝材に埋もれて、段ボールよりも一回り小さい正方形の缶が、ちょこんと入れられていた。
彼女が目線で早く開けてよと訴えるので、続けて缶の境界に止められていたテープを剥がして、蓋を開ける。そこには、箱一杯につやつやのクッキーが敷き詰められており、バターとザラメの甘い匂いが俺の鼻腔を刺激する。いわゆるクッキー缶と呼ばれるものだ。市松模様のクッキー、中央にジャムが入ったクッキー、月と星の形をしたクッキー、オランジェットなど、多種多様なクッキーが隙間なく入っており、もはや一種の芸術のようにも見える。
「これは……」
「クッキー缶よ。アンタ、作業の時にクッキーを食べていることが多かったでしょ? せっかくの誕生日なんだし、ちょっとお高めのクッキー缶を取り寄せてみたのよ」
誕生日──その単語を聞いて、俺は今日、自分の誕生日だということを思い出した。杏璃は幽霊みたいなものだから、年齢という概念はないかもしれないが、今日を持って俺と杏璃は同い年、すなわち二十四歳となったのだ。あの晩夏の事件や昨日のてんやわんやが無ければ、もう少し自覚があったのだろうが、どうも感覚が麻痺しているらしい。
「毎年、贈り物をしている訳じゃないけど、こういう時くらい千尋のことを労ってもいいかなって思って、事件がひと段落してから、千尋のお母さんに相談しに行ったのよ。アンタが実家に帰っているタイミングで、こっそりね」
「そっか。そこまで考えてくれていたのか。それじゃ早速、休憩がてらコーヒーを入れて、いただくとするか。一人じゃ食べきるのに時間がかかるだろうし、杏璃も食べるか?」
「じゃあ、少しだけもらうわね。そう言えばアタシ、この体になってから液体を飲んでないんだけど、飲めるものなのかしら?」
「知らん。コーヒーを入れたカップを持てるなら、飲めるんじゃないか? ……というか、それだとお前にカトラリーを渡しておけば、生前と同じように一人で食事できた可能性があるってことか……? 俺が進んで羞恥プレイを強要しただけで……」
俺はそこで、意図的に思考を止める。実際に試して本当にそうだった場合、過去の行いを消し去るために、勢いで身投げしてしまいそうだからだ。杏璃の生態について、今後のためにももう少し知っておいても良いとは思うが、それは今ではない。そう、知らなくてもいいこともある。それを俺は平塚さんと萩原の件で再認識したばかりじゃないか。
「千尋? 何か無の境地の顔みたいなしてるけど」
「ああ、気にすんな。でも、飲み物を試すのはまたの機会にしよう。杏璃は、酒もカフェイン系もそんな飲まないだろ?」
「ええ、飲まないけど……。正直に言ってしまえば、お腹が空く感覚も、喉が渇く感覚も無いから、飲み物を飲まなくても平気なんだけどね。前も言ったけど、アタシ自身のモチベーションの話なだけで」
「それで言うと、お前は食べ物の方に重点を置いている訳だな……まあ、誰でもそうか」
俺はリビングのテーブルにクッキー缶を置いた後、現実逃避の気持ちを込めて、戸棚からインスタントのスティックコーヒーを取り出した。そう言えば、あの日の朝も、こうしてアイスコーヒーを作って飲んでいたような気がする。ゆっくりコーヒーを飲むのも、一ヶ月ぶりだったようだ。
俺がリビングの椅子に座ったのを見て、杏璃も向かいの席に座るふりをする。アイスコーヒーに入れた氷がからんと鳴るのと聞きながら、俺は再びクッキー缶の蓋を開けた。
「……そう言えば、話は変わるんだけどさ。いずれは言わなきゃいけないと思ってたから、今言うわ」
「え、改まって何よ? 言葉の鎧に殺されて、昨日の夜に告白されてる身なんだから、今更何を言われたってそうは驚かないわよ」
「──その、言葉の鎧。萩原の話だよ。芥川にも話の大筋に関係ないから言ってないんだが、あの事件が起こった数日後、石川さん──萩原の職場の先輩から、連絡を貰っていてな」
あのインタビューの時、萩原同様、石川さんとは名刺を交換していたため、向こうも俺の連絡先を知っていた。連絡を貰っていたタイミングでは、まだ俺のスマホは壊れており、電話番号も登録していなかったため、気付くまでに数日のラグがあったが、尋常ではない数の着信履歴を見て、俺はその電話番号にかけ直すことにした。そしたら、憔悴している石川さんが電話に出たという流れだ。
「で、あの子の先輩は、何て言っていたの?」
「萩原がどこに行ったか知らないか、って。今まで無断欠勤したことが無かった上に、連絡が取れないから、何か知らないか俺に聞くために電話をかけたらしい。萩原の家に連絡をかけても『知らない』の一点張りで、職場の他の人間も知らなかったから、藁にも縋る思いで、俺に連絡してきたんだとさ」
今でも思い出せる。この時の石川さんは、声だけでも十分わかるくらい、かなり焦っていた。萩原は無断欠勤をするような奴じゃない、そう言えば、出勤しなくなる前日に意味深なことを言っていたかもしれない、屋烏夜鷹先生に連絡するのが正しいのかも分からないけれど、同級生だと言っていたから、何か知っているかもしれないと思って連絡した、と言っていた。
インタビューを受けた時から、二人の関係はそれなりに良好なのだろうなとは思っていたが、一度会っただけの俺に電話がかかってくるあたり、少なくとも石川さんは、萩原の行方をかなり心配しているようだった。
「石川さんからすると、萩原は初めての後輩だったんだってさ。だから、どうやって業務内容を教えたら伝わりやすいか、異性だけど飯とか誘ってもいいのか、しばらくは残業させないように業務調整してあげようとか、いろいろ考えていたんだと。萩原は物覚えも良いし、誰に対しても愛想が良かったらしかったから、そんな後輩が自分のことを頼ってきてくれるのが、嬉しかったらしい。だからこそ、こうして何も言わずにいなくなってしまったことに、酷くショックを受けているみたいだった」
改めて考えてみると、石川さんの下の名前──明星は、明るく輝く星、つまり太陽を連想させる名前でもある(本来は金星を指す言葉だが、太陽より手の届きやすい位置にある星とも言えるだろう)。萩原は萩原なりに、杏璃に頼れないと思ったからこそ、依存先を石川さんに変えようとしていたのかもしれない。太陽に近付こうとした、あるいは太陽そのものになろうとした月が、最終的に一つの星に辿り着いたというのは、ある種の皮肉にも聞こえる──夜鷹が最終的に星に向かったのと同じだ。認めたくない気持ちもあったが、やはり萩原と俺は、似た者同士だったのだろう。ここまでくると、運命じみた何かを感じる。
「……そう。で、その人には、熾月のことを伝えたの?」
「伝えられるわけないだろ。『実は萩原は人殺しでした。しかも、萩原の中身は黒い泥、あるいは砂に摩り替っていて、妖刀で切ったら塵になってしまいました』なんて、伝えても誰が信じるんだよ」
「それは、そうなんだけど。平たく、熾月が殺されたことは、伝えてあげても良かったんじゃないの?」
「──お前なあ。正しいことは悪いことじゃないが、正しすぎるのも生き辛いということを、ちゃんと知っておいた方がいいぞ。正当防衛だとしても、萩原を殺したのは俺たちだ。萩原の先輩にそんなこと言ってみろ、ややこしいことになるに決まってるだろうが」
杏璃は俺のその言葉を聞いて、俯いて黙り込んでしまった。あの時、萩原を殺してしまったことを悔いているのかもしれないし、自分の公平な言動を恥じているのかもしれない。やっぱり俺は、人を叱ったり、諭したりすることが苦手のようだ。人のために言っていたとしても、どうしても罪悪感のようなものが押し寄せてきてしまう。
「……はあ。石川さんには、見つけたら伝えるって話してはあるけど、俺が杏璃に話したかったのは、この話じゃないんだ。これは前提というか、きっかけであって、別に杏璃のおこないを責めたかった訳じゃない」
「……きっかけ?」
「石川さんからの電話は、俺が萩原に対してどう思っているかを、整理させてくれたんだ。前提として、杏璃を殺して、俺も殺そうとしてるんだから、好きになるのは無理だ。……だからと言って、嫌いにもなれなかったけどな。萩原がいたからこそ、俺は自分自身と向き合うことが出来た」
今回の事件は、失ったものが大きかった分、得るものもそれなりにあったと言えよう。とは言っても、杏璃がこうして俺の向かいでクッキーを食べていなければ、俺は一人でこの世界を呪い続けていただろう。杏璃がいてくれているからこそ、俺は何とか羅刹にならずに済んでいる。
「──だから俺は、萩原を取り戻したいと思ってる。あいつは今、訳の分からない組織の、訳の分からない実験に使われているだろう。あるいは、実験にも使われず、異能の隠滅のために、押入れの奥底に仕舞われているだけかもしれない。それじゃ、萩原はずっと死んだままだ。萩原の命がそこにあったと証明したい。萩原の帰りを待ってくれている人に、萩原を帰してあげたい。それが俺に出来る、せめてもの償いだと思うんだ」
「アタシの存在を証明したように、ね。アンタ、言うようになったじゃない」
杏璃はそう言いながら、目でクッキーを寄越すように訴える。俺はクッキー缶の中から一枚のオランジェットを取り出し、杏璃の方に差し出した。杏璃の手が迎えに来るかと思いきや、直で(身を乗り出して口で)食べに来たので、俺は思わず反射で手を引っ込める。
「ちょっと、遠ざけないでよ。アタシにはオランジェットの一枚もあげられないって言うの?」
「手で取りに来なさい、行儀悪いぞ。昨日、お前に好意があると告白した男の前で、よくもまあそんな大胆なことが出来るな。自分が大人の容姿であることを思い出せ、お前が今無事なのは、俺の理性とその体の特性のおかげだと感謝しろ」
「なんか千尋、いつも以上にワードが切れているわね。吹っ切れたからかしら?」
「誰のせいだと思ってるんだよ……」
杏璃は渋々かじられたオランジェットを手に取り、大きく口を開けて、残りをぺろりと平らげる。オランジェットってそんな食べ方をされるものだっただろうか。
「話を戻すわね。あの子を取り戻すってことは、平塚さん? に会いに行くってこと? 叔父さんと戦闘しているところを見ると、手練れみたいな感じだったけど……大丈夫なの?」
「平塚さんに正面から会いに行っても、まあ返してはくれないだろうから、まずは自分の異能をチラつかせながら定期的にけん制しつつ、萩原の様子を探ってみる。その合間に、異能に詳しそうな知り合いがいれば、そこから情報を仕入れていく感じになるだろうな」
「異能に詳しそうな人? そんな人いる? かなり特例だと思うんだけど……」
「おいおい、今回の件でもお世話になった面子がいるだろ。まず、小泉さん。俺の能力や、お前の特異体質をあっさり受け入れていたし、平塚さんが所属する組織──異能研についても、何か知ってそうだったからな。あとは……まあ、芥川に聞いても何かしら成果はあるかもしれない。あいつが集める物語とやらに、平塚さんとの交渉材料が見つかる可能性がある。だから、神社か図書館か、その辺りを当たってみるつもりだ。杏璃も手伝ってくれるか?」
「ええ、勿論。あの子を今度こそ助けられるのなら、アタシも力を貸すわ。と言っても幽霊だし、アンタの助力が無いと物すら触れられないけど、出来ることがあるなら言ってちょうだい。でも──」
杏璃はそう言って、脈絡なく椅子から立ち上がった。気付けば外は橙色に染まっており、彼女の身体を琥珀のように透かしている。彼女の存在を強調するような、それでいて彼女を消してしまいそうな、眩しい光だ。
「折角の誕生日なんだから、今日くらいは大人しくしていなさいよ。誕生日は一年に一回しかないんだから。熾月奪還作戦は明日から。いいわね?」
「……分かったよ。じゃあ今日は、出前でも取ってゆっくりするか。昨日も上等なもの食べさせてもらったけど、誕生日だから許されるだろ」
「ええ、アタシが許すわ。たくさん頼みすぎても、アタシが食べてあげるから、好きなものを頼みなさい。幽霊は胃袋も無いのよ」
「お前……マジで突っ込みづらいから、そのボケやめろって……萩原が泣くぞ……」
夏の暑さが少しずつ去っていく。あの夏の出来事が蜃気楼のように揺らめいて、俺の中に溶け込んでいくのを感じる。あの夏、俺たちは線香花火のように、あるいは蛍のように、自分の身を焦がしながら、言葉をぶつけあった。
「──千尋。アタシを助けてくれて、ありがとう。わがままを聞いてくれて、ありがとう。手を取ってくれて、ありがとう。アタシ、アンタの幼馴染でいられて、良かった」
「どういたしまして。俺はお前にもらったものを、一生かけて返していくつもりだから、何も言わずに消えたりするんじゃないぞ」
「……ええ、約束するわ。指切りしましょ。せっかくお互いの手は触れることが分かったんだし、記念として、ね」
杏璃はそう言って、手持無沙汰だった俺の右手を持ち上げて、ゆっくりと小指を絡ませた。冷たい肌のぬくもりが指から伝わってきて、何故か目頭が熱くなってくる。
「──ああ。俺もしばらくは、死ねないな」
俺たちは、あの夏の証人なのだから。